芭蕉の句に思いを馳せる
今日は小学生に「俳句とは?」を教えていたのですが
教えながら「こいつは難しいぞ」と自分で思いましたね(笑)
まず5・7・5の17文字しか使えない事。
そして「季語」を入れるのが俳句であるという事。
最近「サラリーマン川柳」なんてのが流行ってますが
川柳っていうのは、俳句の季語が無いバージョン。
要は5・7・5の文字数を守れば全て川柳です。
そもそも、川柳や俳句などの和歌ってのは
どういう時に作るのか?って事を考えるとき
基本的には「感動の中心」があって、その肉付けも
含めて17文字って事ですよ。俳句に至っては、
さらに季節を表す言葉もつけなさいっていう…
究極のキャッチコピーですよね(笑)
俳句と言えば松尾芭蕉ですけど、芭蕉の奥の細道から
「静けさや 岩に染み入る 蝉の声」を題材に説明しましょう。
芭蕉の俳句ってのは結構ハッキリしています。
静けさやの「や」ってのは切れ字と言って、
この俳句は初句切れの句なんですよ…っていうのは
中学生に教えている内容ですけど、そもそも句切れって
何なのか?というと、この句は感動の中心が
「静けさ」であってそれ以外の「岩に染み入る蝉の声」は、
この句の飾りでしかないワケです。
それをハッキリ区別するための「句切れ」なんです。
だから松尾芭蕉は山形県の立石寺で、
その静けさに感動したんです。
「あぁ、静かな所だな。蝉のうるさい音も
この岩に隠されてしまうんだろうな」と思い、
この句をサラサラと書きました…って話なんです。
単純に見えますが、これがまた難しい。
芭蕉の句の美しさって、感動の中心ではなく
その飾りの句が素晴らしいと思うんですよね。
例えば、この句を少し変えてみましょう。
「静けさや 岩に隠れる 蝉の声」
どうです?なんか中途半端な感じになりませんか?
実際、そういう風に聞こえるんでしょうけど、
それを、そのまま表したら、なんかフツーに感じてしまいます。
芭蕉は、そこに「染み入る」って言葉を使うのですが
「隠れる」ではなく、染み入るを使うことにより、
そこの自然の深みが増すような気がしませんか?
何百年も昔から、ここの静けさは、この岩によって守られてきた…
って感じがしますよね。岩の存在感が出ますよね。
「染み入る」の四文字で、この句は松尾芭蕉ブランドを
保っているとでも言いましょうか(笑)
ちなみに芭蕉の季語は実に自然に出てきます。
それは、感動の中心が季節と繋がっているからこそでしょうね。
蝉の声が無ければ静けさにも感動していなかったのでしょう。
たまたま芭蕉が立石寺を訪れたのが蝉の鳴く「夏」であったからこそ
「静けさ」に感動したのであろうというのが読み取れます。
現代の人が俳句を作る時「季語は何にしようかな…」と
考える人がいるかもしれませんが、そもそも、その考え方が
芭蕉とは違うという事になります。俳句を考える時は
季語を考えるのではなく、その季節だからこそ感動する何かを
見つけて、それを中心にした俳句を作るべきなのかもしれませんね。
芭蕉の句をもう一つ
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」
これも眼下に広がる新緑の空き地を眺めながら
その色の美しさに感動しつつも、そこが古戦場で
あるという事から「つわものどもが夢の跡」という
言葉を飾る事で深みが増していますよね。
ただの空き地では無い、その緑の美しさは
かつての武士たちが抱いたそれぞれの夢を
散らした場所だからこそ美しいのではないか?
という、あくまでも芭蕉の感想ではありますが
とても深いものになっております。
なんか、ちょっとした歴史スペクタクルのエピローグに
できそうな話だと思いませんか?
って、芭蕉の俳句でそこまで興奮できる私自身が
珍しい人種なのかもしれませんけど(笑)