教材に求めるもの
「
これOK、正解。正解だけど
どうしてこうなったの?」
この問答が、うちの塾の「売り」の一つ
である対話型授業です。
やり方を教え込む
その通りにやれば答えが出せる
答えが出れば高校にも大学にも合格できる
これが従来型の勉強だったのでしょうが
これからはそうはいきません。
メソッドです。生徒それぞれが
自分のメソッドを持ち
それを理論的に説明できなければ
高校にも大学にも合格できない時代が
来るというのです。
私が生徒に指導するのは一般論
生徒にはその一般論を自分なりに
解釈してもらい、自分の言葉で説明できるか
を私は授業の中で聞いているのです。
最終的には私が一般論を教えずとも
自分らでテキストなり教科書なりに書いてある
一般論を自分で解釈し、わからない生徒に
生徒が指導するような塾にしていきたいのですが…
まだ、そこまでには至っていませんね。
でも、生徒なりに解釈するところまでは
何となくできてきている気がします。
それでも今はちゃんと見てなきゃ
ハチャメチャな解答を出して
飄々としている生徒もいますけど(笑)
「塾は教材だ」っていう感覚の同業者は
結構多いのですが、私の塾のコンセプトは
こんな感じなので、いまいち教材がフィットしている
という実感はありません。
そりゃそうですよね。
あくまでも「生徒なりの正しい解釈」を
求めているのですから、テキストが絶対的なものとして
主張するような教材は「NO」なのです。
かといって、独自の色を持っていない
テキストなど存在しないのですよ。
教材会社にしてみれば、教材一つに何百万という
金をかけて作っているのですから当たり前ですね。
中途半端な教材なんか作ろうものなら
そんなものはボツになるに決まってます。
各テキストにコンセプトを与えて、製作者は一生懸命
コンセプトに叶う条件でページ割を考えて作るわけでしょ。
よって教材会社が頑張れば頑張る程
私の求める教材像とはかけ離れていくんです。
あれ?私の求める教材像って何だ?
明日からは、それを考えてみたいと思います。