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元寇


いまより遡る事744年。

北九州は騒然としていました。

モンゴル帝国改め「元」の大艦隊が

北九州沖に現れたのです。

その数は大きな船が4000隻とか…

真っ黒に見えた事でしょう。

実は時の鎌倉政権は、

この事を事前に予測していました。

九州の御家人をほとんど北九州の地に

移動させ、防塁を築いて待ち構えていたんです。

意外と知られていないのが

北九州より先に対馬・壱岐の島が元軍によって

蹂躙されていた事でしょう。

何人もの島民が殺戮・拉致され捕虜として

連れていかれたようです。

そのまま現在の長崎県を襲い、

初戦は日本軍の完全敗北でした。

しかし、博多まで進んできた元軍が上陸し

陣を張ると御家人が大活躍

早々に元軍を敗走させます。

赤坂の戦い・鳥飼潟の戦いにて

劣勢となった元軍は軍船に戻り、

夜中のうちに軍船を移動させようと

動き出した所で噂の暴風雨にさらされ

何百艘もの船が沈没・座礁。

戦わずして兵隊が多数亡くなったそうです。

元軍大混乱の末、撤退が決まり

かくして文永の役は終了します。

その4年後元軍はまた日本に侵攻すべく

押し寄せます。文永の役の何倍もの兵力で

朝鮮・上海から軍船を出しまた九州を襲うのです。

またもや対馬・壱岐は初戦で圧倒的兵力に

飲み込まれます。さらに元軍は志賀島に上陸

そこで日本軍と最初の大きな戦闘となります。

伊予の国(現在の愛媛県)の御家人、

河野通有は負傷しながらも志賀島に

停泊する相手軍船に乗り込んで、元軍の将官を

生け捕るという手柄を立てています。

つ、強すぎるだろ、御家人衆は(笑)

その後、壱岐の島でも戦いがあり、

元軍は上海からくる軍勢と合流すべく撤退。

上海から来た艦隊と、朝鮮から来た艦隊は

長崎県の平戸あたりで合流します。

鷹島に主力を置いた元軍に対して

またもや日本軍は海戦を仕掛け、

相手将校を討ち死にさせています。

元軍は鷹島に本陣を置き、太宰府に侵攻

するつもりであったのですが、日本軍が

次から次へと戦いを仕掛けてくるので

逆に防戦となるのです。

船を鎖でつないで鷹島の砦とし、ここから

弓矢を射かける事で鷹島を守るという

どっちが攻め込んでいるのかわからない戦術に

切り替えるのですが、これが裏目にでます。

台風です。

2回目の神風によって、繋がれた軍船は

ぶつかり合い、壊れて沈没します。

この神風により20万とも言われていた

元軍は半数まで減ってしまうのです。

当然、勝ち目が無くなった元軍は撤退を

決めるのですが、台風でまともに帰れる船が

減った為、元軍の将官(モンゴル人メイン)だけを

まともな船に乗せて、10万人もの中国人の

兵隊を鷹島に置いて逃げてしまいます。

残された10万の兵隊は鷹島に留まり

日本軍に備えますが、いかんせん指揮をとる

将官もおらず、元軍相手に全く怯まず

連戦連勝の御家人衆相手にしては手も足も

出なかったようで、大量殺戮されてしまいます。

捕虜の数は2万とも3万ともいわれていますが

彼らもまた、博多にて多数が処刑されます。

これを鷹島掃討戦といい、今でも鷹島の地名には

首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、

死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、

供養の元、伊野利(祈り)の浜

といった生々しい地名があるようです。

これをもって弘安の役は終了。

元による2回の日本侵攻作戦は幕を閉じます。

でも知ってましたか?元の皇帝クビライは

3回目の侵攻計画を練っていたんだそうです。

もしも、3回目を実行に移していたならば…

御家人に褒美も出せずにオロオロしていた

鎌倉幕府にはたまったもんじゃありませんね。

しかし、その状況がクビライの耳に入る事はなく

3回目は実行に移されなかったワケですが…

あらあら、久しぶりに歴史のロマンを語ろうと

思ったら、長くなってしまいました。

実は元寇には色々なエピソードがあるんで

それについては明日のブログで書こうと思います

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