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明智光秀=南光坊天海?


昨日の続きです。

明智光秀についてですが、実は

生まれた年がよくわかっていません。

そして青年期についても

「よくわからない」の一言で片付けられています。

一方、天海和尚ですが、天海和尚も

正しく生まれた年がわかっていないのです。

どこで生まれたかも定かではない…

明智光秀なら100歩譲ってわからなくても

仕方ない気はするのですが、天海和尚は

徳川家康のお墓を作った人です。

そんな人が出自不明って、

そんな事ありうるのでしょうか?

天海和尚のお墓は日光東照宮にもありますが

滋賀坂本にもあるそうです。

滋賀坂本は光秀が治めていた土地ですからね。

ううむ…所縁が深い。

天海和尚は学僧だったのにも関わらず

甲冑を持っていたようで、しかもお墓には

天海和尚の「鉄砲」が収められているようですよ。

おいおい、お坊さん…しかも高僧ですよ天海は

そんな人が鉄砲持っちゃいかんだろ(笑)

光秀は日本でも指折りの鉄砲撃ちですからね

そんな所にも共通点があるんです。

ここからは推測ですけど

「徳川家康」がこの説の最重要人物だと思うんです。

もしかしたら「本能寺の変」に徳川家康も

関わっていたのではないかと…いや、もしかしたら

豊臣秀吉も関わっていたんじゃないかとまで思うんですよ。

何でかというと…個人的な感想ですけどね、

明智光秀のイメージって悪すぎやしないか?って思うんです。

明智光秀=悪人っていうイメージは江戸時代に

確立されるのですが、なんかそれが意図的なんじゃないかと。

江戸幕府を開いた徳川家康は

織田信長の盟友であったからこそ、

豊臣時代でも五大老として権勢を維持できたわけで

本能寺の変に加担していたなんてことが事実なら

絶対に知られてはいけないと思うんですよね。

しかし、幕府を開くに至った陰の立役者は

「本能寺の変」を成功させた光秀である事は明白です。

だからこそ、天海(光秀)は

「明智光秀を残忍に仕立て上げなさい」という命令を

出したのではないか?とまで思うのです。

本能寺の変の時、徳川家康公は命からがら

関西から逃げ出して岡崎に逃げ帰ったという話を

さも事実のように世間に知らしめていますけど

これは歴史の書き換えのような気がします。

そう、歴史っていうのは、勝者(権力者)の手によって

いくらでも書き換えられるんですよ。

天海和尚と家康が初めて会った時の逸話があります。

家康はそこにいた家臣たちを遠ざけ、

天海と二人きりで4時間も話をしていたというのです。

家康は豪胆に見えて、実は繊細な人であったらしいので

そんな事は初めてであり、側近も驚いていた

という記述まで残っています。

もしかしたら、この時に天海(光秀)と家康の謀議が

あったのかもしれません。内容はというと…

「裏切り者の豊臣秀吉を如何に討伐するか」

もちろん、これは私の想像でしかありませんよ(笑)

天海和尚=明智光秀説の解明はすなわち

「本能寺の変=徳川家康も含む大陰謀説」を

暴くことになってしまうので、

これを調べること自体タブーなんです。

多分、この先も解明されることはあり得ないでしょう…

でも、こういう事を推測する事が

歴史の面白さであることを、小中学生にも

わかって欲しいと思っています。

ではまたいつか、ネタが尽きた時にでも(笑)

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