歴史の面白さ
歴史が嫌いな生徒は残念ながら多いです。
私はそういう生徒に聞いてみます。
「じゃあ過去よりも未来の方が興味がある?」と…
大抵の歴史嫌いの生徒は頷きます。
そんな生徒には言ってやるんです。
「それなら歴史を勉強しなきゃいけないね」と。
え?という顔をする生徒にトドメを指します。
「未来を知りたいんだろ?だったら歴史を学びなさい」
「だって、歴史は繰り返すんだから!」
これ、どっかの有名な歴史の先生がよく使う
歴史を勉強させるための前フリなんですけど
たまに使わせてもらっています(笑)
まぁ、こんなキザい発言をしたところで
うちの教室の生徒には「ハイハイ…」みたいな事を
言われてスルーされているんですけどね(笑)
今日は「歴史の面白さ」というタイトルですが
今後、歴史についての不思議を載せていきます。
私たちが見聞きしている歴史なんて、
真実であるかどうかなど誰もわからないんです。
そこが歴史の不思議であり面白さでもあるんですよ。
今回は「明智光秀は生きていた?」という話をしましょう。
歴史の教科書通りに説明すると明智光秀は1582年に
当時イケイケヒャッハーだった織田信長を本能寺にて
誅殺します。明智光秀自身は織田信長に
相当頼りにされていたんですよ。それなのに裏切る…
これが戦国時代と言ってしまえばそれまでですが、
まとまりかけていた日本がまた乱れます。
中国地方で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉がヒョンな事から
その話を知り、毛利となんぞ戦ってられぬと早速講和し
凄い勢いで関西に引き返してきます。
明智光秀はその豊臣秀吉を待ち構えて「山崎の戦い」で
戦いますが、あっけなく負けます。
そして退却している時に山の中で落ち武者狩りをしていた
農民に殺されたというのが歴史の話なのですが…
実は明智光秀は生きていたのではないか?
という説があります。
徳川家康の側近に南光坊天海という
お坊さんがいますが、この天海こそが
明智光秀だったのではないか?という話があるんです。
南光坊天海は家康のお墓である日光東照宮の建設に
携わっているのですが、日光東照宮には明智家の紋章である
桔梗の花がたくさん描かれているという話。
そもそも徳川幕府の2代将軍「秀忠」
3代将軍「家光」ともに、明智光秀の名前の漢字が
1字ずつ入っている…確かに…
え?マジで?って思いますよね~。
まだまだ光秀=天海説の根拠はありますので
続きはまた明日にしましょう。