いじめについて2
いじめについて語り合っていると
こんなことをいう人がいます。
「いじめられる側にも問題がある」
みなさん、どう思いますか?
私は、その考えは非常に危険だと思います。
例えば通り魔事件があって
罪のない誰かが命を奪われた…
その時に「殺される側にも問題がある」
って言いますかね?ありえないでしょう?
いじめられてはいけないのではなく
いじめてはいけないのです。
加害者がいなくなれば、
被害者は0名になるはずなんですよ。
よって、教育としての方向は
いじめられないようにする為ではなく
いじめない人間になる事を目指させる
べきだと私は思います。
ただし、難しい問題が出てきます。
「いじめられているかどうか」の判断は
本人に委ねられているという事ですね。
いじめている側がいじめているという
認識が無い場合もあるのです。
これこそが、いじめ問題の一番大きな
問題点であると私は思います。
A君はいじめられているか?という問いに
「客観的に見て」と限定すればNO。
A君からみればYESかもしれない
では、どうするべきなのか?
今までの教育って全員主義的な
所があったと思うんです。
例えば…
「これからいじめに関する調査用紙を配るので、
君たちは思った通りに書いてくれ」といった感じ。
これ、書きませんよね。
「私はいじめられています」って書いたのが
隣の奴に見られたら最後です。
でもこれからは教育もタブレットなどを使い
デジタル化するという事です。
提出も「送信ボタン」を押せば
できる世の中になるというなら、
いじめに関しても、リアルタイムで個々に
「送信ボタン」一つでSOSを出せる
という事ですよね。
少なくても、今までよりは実態が
把握できると思います。
客観的にいじめは無いと判断できても
いじめられた側がいじめられていると
思い込んでいるだけの「隠れいじめ」も
見つけられると思うんです。
その実態がわかれば、次に取るべきは
いじめられていると思い込んでいる生徒と
向き合い、なぜそう思っているのかを分析
できるのではないでしょうか?
生まれた時から、どんな事もパパ、ママ
おじいちゃん、おばあちゃんが話をきいてくれて
何でも思い通りになっていたのに
学校生活でも同じように振舞ったら
友達の中に僕の言う事を聞かない奴がいる。
だから、私はいじめられている。
極端かもしれませんが、こういう生徒も
中にはいると思うんですよ。
学校の先生ならば、どう対処するでしょうか?
私ならば向き合って話します。
保護者と生徒と三者面談でじっくりと話合いますね。
それで「いじめられている」という思いを
改善できるならば何回でも何時間でも話します。
自分の思い通りにならないからこそ
この世の中は面白いんじゃないかと
思想を変えさせますね。
思い通りになるはずのない世の中で
どういう生き方をすれば満足できるか?
全ての人間がその問いの答えの為に
生きているんだよって教えます。
いじめられているという認識が一つ消えれば、
いじめの加害者も一つ消えます。
その「認識」を炙り出す手法を見つける事が
急務ではないでしょうか?
学校教育におけるタブレット使用が標準に
なるならば、こんな使い方もできると思うので
是非有効に使ってもらいたいものです。